写真を撮るようになると変わること

 こんにちは。lupinstyleです。

 上の画像は、家族で湯河原温泉へ行ったときの一枚。湯河原駅前の「手湯」を撮影したものです。流れているお湯の質感が少しでも伝わるでしょうか。

 さて、今回は「じじいになっても続けられる趣味がほしい」とカメラを始めた僕が、実際に写真を撮るようになって変わったことを紹介していきます。

旅先で暇じゃなくなる

 何だそれ、とのっけから思われてしまいそうですが、僕が写真を撮るようになって一番感じた変化は、外出時の暇から解放されるということ。特に旅先では、魅力のある被写体を求め周囲をしっかりと眺めるようになったのです。

 たとえば、僕は湯河原で手湯を見たとき「首都圏にないものだ」「なんか良い」と感じシャッターを切りました。写真を趣味にしていなかったら、ちょろっとお湯を触るだけで通り過ぎていただろうと思います。

 旅行でいくら風光明媚な場所へ行っても、生々しい感動が持続するのは最初の数十秒だけだったりしませんか? しかし、写真を撮るようになると違います。自分が感じた魅力を最大限表現したくて、最適な絞りとシャッタースピード、ISOの調整に忙しくなるのです。
 せっかくの旅行で感動できる何かを探し、写真という形に残す楽しい時間が増えました。

カメラに愛着が湧く

 写真を撮るにはカメラが必要。
 そして、購入者の財力と商品のグレードにもよりますが、一般的にカメラは高額です。

 記事執筆時点で僕が使っているカメラは、約15万円ほど。身の回り品としては、婚約指輪のお返しとして妻から貰った腕時計、一着だけ持とうと意を決して買ったブランドスーツ、これらに次ぐお値段なのです。いや、高い…
 これでもカメラ全体の相場からすると安いほうで、せいぜい中級機の下位モデル。上を見るほど涙が止まりません。

 ただひとつの朗報は、カメラは大切に扱えば意外とリセールバリューが付くこと。そうと知れば丹念に掃除したり不意の落下に気を付けたり…。
 もともと「お気に入りの写真を撮るための頼れる相棒」ですけど、この手入れの手間も相まってカメラには自然と愛着が湧きまくります。

 このようにして、写真を始めると邪険に扱えない高級品、そして愛着が湧いたカメラという宝物の所有者となるわけです。大切なモノが増えるのは、案外楽しいことですよ。

芸術家を気取れる

 写真はアートか、と問われると「ただの記録」と答える人がいます。
 なかなか難しい問題ですが、写真にはフォトレタッチ(加工)の要素もあるので絵画的な一面があると言えます。そこからすると、アートになり得るものなのでしょう。
 一方で、レタッチすれば写真が持つ記録的な意味合いは急速に失われてしまいます。絵画になくて写真にあるものが「記録的な要素」だとすると、それをあえて捨てるのがレタッチという行為なのです。

 そのへんは、子供の成長記録を撮りたいのにわざわざ加工する親も少ないでしょうし、芸術写真を志向して加工をしない人も少数派なので、写真に何を求めどう向き合うかは撮影者が好きに判断すれば良いものです。

 好きにすれば良いのなら、それは写真を撮ることで芸術家を気取っても良いということ。写真を使った嘘や誤解を招く行為はいけませんが、個人で楽しむぶんにはまったく問題ありません。
 撮影者に何か表現したいことがあり、見た人の心が揺れるのならアートと呼んで良いはず。たくさんエモい写真を撮ってこっそり芸術家を気取りましょう。趣味は楽しんだもの勝ちです。